私的俳句論・現在篇

2009年11月25日 20:58

金村眞吾(4)

  朝顔の紺に推古の空ありぬ

季語は「朝顔」で秋。

当然ですが、波郷の
  朝顔の紺の彼方の月日かな
を踏まえているでしょう。「推古」は「推古天皇」に拠るのでしょうけれど、ここでは「古をおしひらく・おもいみる」といった語の原義に立ち返っているところもあるように思えます。

   ◆

引用句典拠/句集『柿』(角川書店/2000年発行)197頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月24日 23:02

金村眞吾(3)

  鳥帰る水の色濃きところより

季語は「鳥帰る」で春。

感覚に裏打ちされたレトリック、ということになるのでしょう。確かな感覚、だと思います。

   ◆

引用句典拠/句集『柿』(角川書店/2000年発行)34頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月24日 22:50

金村眞吾(2)

  夏座敷矮鶏が歩いてゐたりけり

季語は「夏座敷」で夏。

こんな景色、もう無いのでしょうね。

   ◆

引用句典拠/句集『柿』(角川書店/2000年発行)23頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月24日 22:42

金村眞吾(1)

  目の前の虚子全集に懐手

季語は「懐手」で冬。

現代俳句は、それに係わる限り、虚子を視野の何処かに置かねばなりません。虚子忌に大浴場で泳ごうとは思いませんが、古書肆に虚子全集の全巻揃いを見つけたとすれば、おそらくは佇むに違いありません。もっとも、懐手の出来るような衣服の持ち合わせはありませんから、掲句の境地に到ることはなさそうですけれど。

   ◆

引用句典拠/句集『柿』(角川書店/2000年発行)20頁

私的俳句論・現代俳句篇

2009年11月24日 20:08

金子皆子(3)

  山繭の薄緑の時間なのだから

季語は「山繭」。手元の季寄せですと「山繭」は春と夏とに立項されていますが、句意からすると「天蚕」の傍題の方ですから、ここは夏。

この句になると、流石に調べには疑問符が付きます。それでも、韻文とは思うのですけれど。

   ◆

引用句典拠/句集『山樝子』(現代俳句協会/2002年発行)46頁

私的俳句論・現代俳句篇

2009年11月24日 07:06

金子皆子(2)

  いまから眠る午前三時の照葉樹林

無季。

楠や樫や椎、などと考えている訳ではなくて、「照葉」や「樹林」という言葉に私は反応しているようです。それにこの「照葉樹林」、誰かさんの暗喩、でもありそうな。

   ◆

引用句典拠/句集『山樝子』(現代俳句協会/2002年発行)42頁

私的俳句論・現代俳句篇

2009年11月23日 23:30

金子皆子(1)

  夜の秋客去りて砂糖壺しまう

季語は「夜の秋」で夏。

私の好きな俳句は、先ずは調べがあり、そこそこに意味内容を持ち、私の何かに何かが通ってくるものだろうと思っています。曖昧ですが、これ以上に何かを言えば、きっと何かが零れてしまうのです。

掲句、破調なのですが、私には調べが感じられるのです。それも、かなりはっきりと。

   ◆

引用句典拠/句集『山樝子』(現代俳句協会/2002年発行)6頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月23日 22:16

堤 京子(1)

  蘆刈つて四五戸の村の現るる

季語は「蘆刈り」で秋。

「現るる」には、どことなく寒さを感じます。言い換えれば、四五戸が互いにぬくもり合おうとしているような、そんなものを思ってしまうのです。

   ◆

引用句典拠/句集『まさらの雪』(角川書店/2008年発行)24頁

ご指摘に対して

2009年11月22日 12:59

「ゐし」についての安直な愚考に対してご指摘がありましたので、それについて更に愚考を重ねてみようと思います。それにしても、この世界、有り難いですね、こういうご指摘には深くお礼を申し上げねばなりません。安直に書いたことに対する反省もありますが、それ以上に、より深く考える切っ掛けを作って戴いた訳なのですから。

メールをそのまま公開するのは、本当はルール違反なのかも知れませんが、minoruさんよりのご指摘、筋からずれないように引用をさせて戴きます。

「正面の顔にマスクの大きかり」の句の「大きかり」の説明なのですが、これは「大し」のカリ活用の連用形で、時制的には過去ということにはならないのではないでしょうか。連用中止法としては、奇妙な用法ではありますが。

文法的には、まさにご指摘の通りでした。訂正をさせて戴きます。さて、文法用語としての「過去形」の不適切な使用はそれとして、一句、「マスクが大きい」という事実認識は一句の為される手前で既に完了していると思えるのですが、どうなのでしょう。それと、この座五、「奇妙な用法」なのですか。「奇妙」には感じないところに、私の文法意識の低さがありそうですね。

「ゐし」の「し」は過去の意味で使われる言葉ですが、俳人の中には現在の感慨的な意味で誤用する人が多いとも聞きますが、一連の紹介句もその誤用の例ではないのでしょうか。

ここでも、私の方で問題としているのは、認識行為が進行中か完了しているかの問題なのですが、この辺を「現在形」「過去形」という言葉を使ったところに大きな間違いがあったようです。むしろ、これらの句に関しては、文法云々ではなく、認識の状況把握として書くべきでした。直感として言えば、
  一つづつ落葉に裏のついてゐし
  水餅の水の重り合うてゐし
の「ゐし」は「ゐる」に置き換えられないように思えますし、
  真昼間の花魁草の影とゐる
の「ゐる」は「ゐし」と置き換えられないように思えます。そこで作者が明確に使い分けているように思われ、私もほぼ使い分けているこの二つの差違を何処に求めるのか、どう使い分けるのか、ということになりそうです。

これは文法問題と言うよりも、表現の作り出すイメージ、あるいは内意が那辺にあるのか、その時に一句の発話者がそれとどの様に関係しているのか、の問題ではないかと思えます。ただ、これに付いては、どうも日本語の文法云々ではないらしく、私の言語体験の問題であるように思えてなりません。論じることの出来る範疇を逸脱していて、このフレーズからはこの様に感ぜられる、を越えては行かないように思われます(別に議論を放棄してしまっている訳ではないのですけれど)。

という訳で、私の側に文法に関する反論はありません。

さて、話は逸れます。

「今、行った」「今、行く」の「今」が、前者は過去であり、後者が未来であるように、私における俳句的な「今」は、「タ形」や「ル形」に拘束されていないことも確かなのです(この意味では、五千石先生の「いま・ここ・われ」の埒外にも出てしまっているようなのですが)。更に言えば、俳句においては、文法なんぞ糞食らえ、とも思っていますし、日本語規則の破壊こそが(妥当にして可能な範囲内で、という条件は付くにしても)まさに詩の為すべき使命とも思っているのです(まったく生意気ではあるのですけれども)。

最後に、マウトナーの言葉を(某書よりの孫引きですが)。

文法の誤りなどというものは、文法が発明される以前にはまったくなかった。

私的俳句論・現在篇

2009年11月22日 08:27

北川あい沙

  箱庭の池で泳いでゐる魚

季語は「箱庭」で夏。

あくまでも感覚的なことなのですが、私は過去形より現在形に順応している気がします。「ゐし」よりも「ゐる」の人間、ということなのです。詠みは当然として、読みにおいても「ゐる」の方がお気楽です。蛇足ながら「ゐる」はパソコンの辞書に登録していますが、「ゐし」はしていません。それで不便を感じたことがないのですから、使用頻度の差違は歴然と言うことになります。もっとも「ゐたり」は登録していますから、単なる過去形/現在形の問題ではないのかも知れませんけれど。

一句、箱庭の尺度を思うと、さて、鯨の筈はないでしょうから、・・・。えっ、あっ、魚じゃん、っていうくらいに小さい筈です。ま、太公望は箱庭にもいらっしゃるようですから、確かに魚がいてもおかしくはありません。「ゐる」からの連想で言えば、私だって泳げる、って発話者が思っていそうな、そんな面白さもあるようです。

   ◆

引用句典拠/ブログ『週間俳句』(2008-07-27 発行より)

私的俳句論・現在篇

2009年11月22日 07:58

茅根知子

  正面の顔にマスクの大きかり

季語は「マスク」で冬。

「大きかり」、これも比奈夫の「ゐし」と同様に過去形です。ニュアンスとしては「水餅の水の重り合うてゐし」に近い用法、でしょうか。事実認識の完了、あるいは発見、に該当すると。「ゐし」と異なり、この辺ならば使えているように思います。

一句、読みの感覚に男女差が出るのでは、と思ってしまいました。鏡に向かう時の性差に近いものがあるように思えるのですが、どうでしょう。

   ◆

引用句典拠/ブログ『週間俳句』(2008-01-27 発行より)

   ◆

記述に文法的な誤りがありました。「大きかり」を「過去形」としたのは、大きな間違いでした。ご指摘、ありがとうございます。

私的俳句論・現在篇

2009年11月22日 07:26

後藤比奈夫(4)

  水餅の水の重り合うてゐし

季語は「水餅」で冬。

この句も「ゐし」の例句。「一つづつ落葉に裏のついてゐし」と同様に認識の完了、でしょうか。「ああ、そうだったんだ」という意味合いなのだと思います。
  落葉踏む音のひとりになりたがる  比奈夫
の現在形の場合、認識は完了していても発話者は主体的に歩き続けねばなりませんから、「水餅」の事実認識とは異なる、ということのようですね。

やはり、難しい、なのです。

   ◆

引用句典拠/春陽堂俳句文庫『後藤比奈夫』(1993年発行)164頁

   ◆

■ ご指摘に伴う追記。
例えば掲句の場合、私の作句の場でならば、おそらく「水餅の水の重り合ひゐたる」が常套的であったかと思われます。それに到る過程として、「重り合うてゐる」や「重り合ひゐたり」は出て来たろうと思います。「重り合うてゐし」は、その「イ」音の連続に対する調べの上での毛嫌いの故に、ほぼ検討の埒外、考えもしなかったに違いありません。とは言え、これらのフレーズの微妙なニュアンスの差違は、これは利用すべきと考えています。となれば、「ゐし」のニュアンス、何としても掴まなければなりません。掴むにはどうするか、例句の蒐集と分析、そして何よりも使うに限ります。で、その推敲の折に最重要として考える選択の基準は、ニュアンスからのわざとらしさの排除、でしょうか。

私的俳句論・現在篇

2009年11月22日 06:58

後藤比奈夫(3)

  一つづつ落葉に裏のついてゐし

季語は「落葉」で冬。

紅葉にではなく落葉にそれを見出したのは、発話者が落葉を何枚か拾い、つまり落葉を手にしたということになるようです。紅葉や黄葉を見上げていたのでは、この句の嗚呼は生まれなかった、ということなのです。

「ゐし」、この過去形は私にはとても使い難く、初案で浮かぶことは先ずありません。推敲の課程でならば出て来たこともあるとは思うのですが、使い得た記憶もありませんから、たぶん、使っていないと思います。この句、仮に「ついてゐる」であったとすると、嫌味が入り込んでしまうようです。やはり、使いこなさなくてはいけませんね。

   ◆

引用句典拠/春陽堂俳句文庫『後藤比奈夫』(1993年発行)179頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月22日 00:40

原 雅子(1)

  雪吊のどの木も暮れてしまひけり

季語は「雪吊」で冬。

この作者を論じるならば、たぶん
  夭折に遅れし体泳ぐなり
  監視員白鳥を抱き走りけり
  何もこぼさぬ地球の自転空は春
  なめらかに海を出し入れ白障子
あたりなのだろうと思います。しかし、これらの句、実は一句もノートに控えませんでした。句会ならば、勿論、これらに不満などはありません。選句数に制限がなければ、すべてを選に加えているでしょう。でも、今は、今の私は・・・。

掲出句、抜きん出ているとは思いませんが、この気分に染まっていたいのです。ある景の中にいて、なんとなく暗誦してしまいそうな、そんな気がしてしまうのです。

   ◆

引用句典拠/句集『日夜』(ふらんす堂/2004年発行)70頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 22:32

辻 桃子(6)

  昨夜の雨南瓜の花をこぼれけり

季語は「南瓜の花」で夏。「昨夜」には「よべ」とルビ。

ただそれだけのこと、なのですけれども・・・。

   ◆

引用句典拠/句集『ねむ』(ふらんす堂/1994年発行)109頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 17:34

古舘曹人(24)

  笹子来て話は尽きてゐたりけり

季語は「笹子/笹鳴」で冬。

話は尽きていた、だから笹鳴を耳に留めることが出来たのでしょう。さて、笹鳴の去った後、そこにはどの様な時間が流れたのでしょうか。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)197頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 17:20

古舘曹人(23)

  雹降つてしばらく榧の匂ひけり

季語は「雹」で夏。

榧の木に雹が当たって、などと考える必要はありますまい。雹が降り、その後のしばらくを榧が匂ったという事実だけで充分なのだと思います。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)172頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 17:10

古舘曹人(22)

  ぐづついていちにち螢袋かな

季語は「螢袋」で夏。

「ぐづついていちにち」であり、「いちにち螢袋」である訳でしょう。技巧と言ってしまえばそれまでですが、フレーズの重ね合わせは、間違いなく奥行きを作り出していると思います。もっとも、句会での合評などでは、例えばこの句の「いちにち螢袋」には触れないのが普通ではありますけれど。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)164頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 16:55

古舘曹人(21)

  めばる煮て一樹に月の盈ちてをり

季語は「眼張」で春。

「満ち欠け」と「盈ち虧け」との違い、知りません。強いて探せば、「盈」には溢れるのニュアンスがあることでしょうか。掲句にしても、月そのものが満月であることより、一樹に月の光の充ち満ちていることが要となっています。更に言えば、「張る」と「盈ちる」の呼応も組み込まれているのですから・・・。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)152頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 16:28

古舘曹人(20)

  豆柿にときをかけたる峠越

季語は「柿」で秋。

中句は「時を掛けたる」でしょう。峠越の途中、豆柿の木に何人かで蘊蓄を傾けてでもいたのでしょう、案外に時間を食ってしまったのです。その後を些か急がねばならなかったのですが、それでも楽しい時を過ごしたのに違いないです。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)128頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 15:50

古舘曹人(19)

  鯊釣の大きな箱に坐りけり

季語は「鯊」で秋。

箱は木箱でしょう。釣人がそこに坐っている、ただそれだけのことです。「鯊」に対して「大きな」がアンバランスな感覚を醸しているのだと思います。そして「大きな」が天気の良さをも意味しているように思えます。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)124頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 15:41

古舘曹人(18)

  九年母の北限あたりかと思ふ

季語は「九年母」で冬。

それが何処であるか、よりも、木の九年母を見て、その様なことを考えていることの面白さ、でしょうか。でも、何処だったのでしょうね。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)123頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 13:33

古舘曹人(17)

  ちぬ釣のおもしろからぬ貌のまま

季語は「黒鯛/ちぬ」で夏。「日向」と前書きされた中の一句。

釣れていないのかと言えば、釣れてはいるのですが、それでもつまらなそうな顔をしている、ということかと思います。「まま」をどう読むか、なのですけれど、いつまで経っても釣れないので、であれば、更におもしろからぬ度合いが増す訳ですから、やはり「まま」ではないと思うのです。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)99頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 13:10

古舘曹人(16)

  種賣に狐日和のおもしろし

季語は「種物/種売」で春。

「おもしろし」などと言われては、売れているんだかいないんだか、ですね。私は売れていないって思っているのですが、種物などというものは商売気を出すものではありませんから、それでよいのでしょう。話は逸れますが、降りみ降らずみを「狐日和」などと人間如きに言われ、狐にしてみれば、そりゃなかろう、というものかも知れませんね。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)96頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 12:08

古舘曹人(15)

  帯解のいろはもみぢの散りにけり

季語は「紅葉散る」で冬。

「帯解/おびとけ」は奈良の地名なのですが、一句、「帯が解ける」と「紅葉が散る」とを呼応させているのではないか、そんな気がします。漢字の使用を「帯解」と「散」とに押さえているあたりにも、そのことの周到さを感じるのですが。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)77頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 11:55

古舘曹人(14)

  湯ざめして大きな月でありにけり

季語は「湯冷め」で冬。「姨捨修那羅峠」と前書きされた中の一句。月の姨捨への晩秋から初冬に掛けての旅であったようで、秋の句と冬の句とが混在しています。この句も「月」を季語として「秋」に分類出来ないことはありません。が、やはり「湯冷め」が季語と思います。

前書の「姨捨」に囚われてしまうと、月の名所であるが故に、そちらへ引きずられてしまうのですが、この句に関してはそれを捨てて読みたいところです。勿論、作者の発想の根がそこにあったことは間違いないのですが。

「湯冷め」には、詩としては、心の揺れの伴うのが普通でしょう。で、大きな月ではありますけれど、つれなさも併せ持っている月、ではないかと思うのですが。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)73頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 08:51

古舘曹人(13)

  昼顔の世に手轆轤を回しけり

季語は「昼顔」で夏。「佐渡」と前書きされた中の一句。

このフレーズには、特に「の世に」の提示あたりに、揶揄のニュアンスを感じるのですが、ではと検証をしてみますと、肯定の意味しか出て来ません。むしろ、昼顔に目を留め、手轆轤を使うことを通して、現代をこそ揶揄している、そんな気がします。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)63頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 08:37

古舘曹人(12)

  裏富士に春の障子をたてにけり

季語は「春の障子/春障子」で春。

富士を障子で隠す、そこでの「裏」と「春」との絡みが面白かったのですが、吟行において、場と時とを得たに過ぎない、とも言えそうです。勿論、場と時とを得ても、小さな器には如何ともし難いことなのですが。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)53頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 08:28

古舘曹人(11)

  松飾る鶏炯々と風の中

季語は「松飾る」で冬。

この鶏、放し飼い、地飼なのでしょう。「炯々」は普通には「眼光炯々」として使われますから、この「炯々」も鶏の眼光を通して鶏の有り様を把握していると考えるのが妥当でしょう。それにしてもこの季語の斡旋、鶏もまた、鶏旦(けいたん)の準備をしているに違いありません。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)46頁

私的俳句論・現在篇

2009年11月15日 08:14

古舘曹人(10)

  蓮枯れてゆきてとどまるところなし

季語は「蓮枯るる/枯蓮」で冬。

安住敦が
  耐へがたきまで蓮枯れてゐたりけり
とまで詠んだ蓮です。その枯れに留まるところがないのは自ずと知れるところでしょう。しかし、掲句、そんな枯蓮を詠んでいることを装ってはいますが、おそらく、違います。例えば誓子の
  海に出て木枯帰るところなし
あたりを思うべきではないか、そんな気がしてならないのです(蛇足ながら、曹人は大正9年の生まれです)。

   ◆

引用句典拠/句集『樹下石上』(角川書店/1983年発行)44頁