「ゐし」についての安直な愚考に対してご指摘がありましたので、それについて更に愚考を重ねてみようと思います。それにしても、この世界、有り難いですね、こういうご指摘には深くお礼を申し上げねばなりません。安直に書いたことに対する反省もありますが、それ以上に、より深く考える切っ掛けを作って戴いた訳なのですから。
メールをそのまま公開するのは、本当はルール違反なのかも知れませんが、minoruさんよりのご指摘、筋からずれないように引用をさせて戴きます。
「正面の顔にマスクの大きかり」の句の「大きかり」の説明なのですが、これは「大し」のカリ活用の連用形で、時制的には過去ということにはならないのではないでしょうか。連用中止法としては、奇妙な用法ではありますが。
文法的には、まさにご指摘の通りでした。訂正をさせて戴きます。さて、文法用語としての「過去形」の不適切な使用はそれとして、一句、「マスクが大きい」という事実認識は一句の為される手前で既に完了していると思えるのですが、どうなのでしょう。それと、この座五、「奇妙な用法」なのですか。「奇妙」には感じないところに、私の文法意識の低さがありそうですね。
「ゐし」の「し」は過去の意味で使われる言葉ですが、俳人の中には現在の感慨的な意味で誤用する人が多いとも聞きますが、一連の紹介句もその誤用の例ではないのでしょうか。
ここでも、私の方で問題としているのは、認識行為が進行中か完了しているかの問題なのですが、この辺を「現在形」「過去形」という言葉を使ったところに大きな間違いがあったようです。むしろ、これらの句に関しては、文法云々ではなく、認識の状況把握として書くべきでした。直感として言えば、
一つづつ落葉に裏のついてゐし
水餅の水の重り合うてゐし
の「ゐし」は「ゐる」に置き換えられないように思えますし、
真昼間の花魁草の影とゐる
の「ゐる」は「ゐし」と置き換えられないように思えます。そこで作者が明確に使い分けているように思われ、私もほぼ使い分けているこの二つの差違を何処に求めるのか、どう使い分けるのか、ということになりそうです。
これは文法問題と言うよりも、表現の作り出すイメージ、あるいは内意が那辺にあるのか、その時に一句の発話者がそれとどの様に関係しているのか、の問題ではないかと思えます。ただ、これに付いては、どうも日本語の文法云々ではないらしく、私の言語体験の問題であるように思えてなりません。論じることの出来る範疇を逸脱していて、このフレーズからはこの様に感ぜられる、を越えては行かないように思われます(別に議論を放棄してしまっている訳ではないのですけれど)。
という訳で、私の側に文法に関する反論はありません。
さて、話は逸れます。
「今、行った」「今、行く」の「今」が、前者は過去であり、後者が未来であるように、私における俳句的な「今」は、「タ形」や「ル形」に拘束されていないことも確かなのです(この意味では、五千石先生の「いま・ここ・われ」の埒外にも出てしまっているようなのですが)。更に言えば、俳句においては、文法なんぞ糞食らえ、とも思っていますし、日本語規則の破壊こそが(妥当にして可能な範囲内で、という条件は付くにしても)まさに詩の為すべき使命とも思っているのです(まったく生意気ではあるのですけれども)。
最後に、マウトナーの言葉を(某書よりの孫引きですが)。
文法の誤りなどというものは、文法が発明される以前にはまったくなかった。