私的俳句論(93)

2006年12月07日 12:15

山口青邨(3)

  春雨に鳥の古巣の濡るゝまゝ

昭和4年作。季語は「春雨」で三春。

この句、意味内容としては「雨の古巣」なのですが、ニュアンス、雰囲気は、「古巣に雨」というよりも「春雨に濡れる」であろうと思います。そのことを踏まえ、季語を「古巣」ではなく「春雨」としました。特に、「濡るるまま」の措辞は、「春の雨」ではなく「春雨」であると思います。「春の雨」には明るさがあり、「春雨」には細やかさを感じます。同じ季語の言い換えでも、言葉の与える印象は随分と違います。もっとも、このこと、間違いなく人それぞれであり、他者に強制できる類のことではありませんから、それをもって断定をするつもりはありませんけれど。

   ◆

引用句典拠/山口青邨著『定本 雜草園』(東京美術/1976年発行)60頁

私的俳句論・現在篇(22)

2006年12月07日 12:39

阿部青鞋(4)

  是非もなき夏や豆腐が買つてある

句集『ひとるたま』より。季語は「夏」で三夏。

しょうもない夏じゃ、ま、豆腐なら買ってあるこったし、…という意味に解したのですが、どうなのでしょうね。冷奴は練りワサビで、が、昨今の私の常ではあります。恵まれた日は、勿論、山葵卸しですけれど。

   ◆

引用句典拠/阿部青鞋著『ひとるたま』(現代俳句協会/1983年発行)13頁

私的俳句論・現在篇(23)

2006年12月07日 13:02

阿部青鞋(5)

  籐椅子の客をしばらくひとりにす

句集『ひとるたま』より。季語は「籐椅子」で三夏。

俳句は「何故?」を語りません、語ってはいけません、と教わったとき、言いたいことをたくさん持っていた私は、それこそ“何故?”と思ったものでした。今は、解っているつもりです。詩は、説明するものではないのだ、とも言います。殊に、俳句には、そんなことをする余地など、確かに有りはしないのですから。

   ◆

引用句典拠/阿部青鞋著『ひとるたま』(現代俳句協会/1983年発行)13頁

私的俳句論(94)

2006年12月07日 19:58

山口青邨(4)

  漸くに雨あがるらし松の花

昭和4年作。季語は「松の花」で晩春。

歳時記に「晴れてくる気配となりし松の花/菖蒲あや」がありました。ほぼ同じ景、同じ認識であるのにも拘わらず、表現された結果にはかなりの差があります。意識の方向性、とでも言えばよいのでしょうか。読み手にとってそれは良し悪しではなく、好みの問題、相性の問題のように思います。

   ◆

引用句典拠/山口青邨著『定本 雜草園』(東京美術/1976年発行)62頁

私的俳句論(95)

2006年12月07日 20:15

山口青邨(5)

  縁臺を濡らして過ぎし夕立かな

昭和4年作。季語は「夕立」で三夏。

どの様な雨が何処を濡らすか、なのです。そこに作為を消し、しかも常識的な価値を超えてみせる、俳句作りの工夫と言えるでしょう。一句、縁台こそまだ濡れていますが、雨は去り、あたりには涼しさが残されています。言い換えれば、青邨は、夕立の中の縁台には興味を持たなかった、と言えるのかも知れません。

   ◆

引用句典拠/山口青邨著『定本 雜草園』(東京美術/1976年発行)65頁

私的俳句論(96)

2006年12月07日 20:32

山口青邨(6)

  をみなへし又きちかうと折りすゝむ

昭和4年作。季語は「桔梗」とも「女郎花」とも。共に初秋。

この句、季語をどちらかに決めてかかると、読み違いをしてしまいそうな気がします。重心は五分五分とするのが妥当ではないでしょうか。敢えて季語を決めねばならぬのならば、「秋草」でしょう。

一句、折り進みつつも、思いは此処に在らず、のようですね。二つを平仮名に開いたことに、花野を行く人の情趣の裏打ちを感じます。

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引用句典拠/山口青邨著『定本 雜草園』(東京美術/1976年発行)67頁